考花学のすすめ Vol.16 コブシ咲く
もうかなり前のことになりますが、ちょうど三月末から四月にかけて東北地方に赴いた私は、ふと名残雪をいただく眩しい山々に目を向けていました。
すると麓のあたりに雪かと見紛う白い塊が見えたのです。
「雪?いや、花だな。サクラ?でもちょっと早いかな……。」
などと自答しながら知人に訊ねると
「ああ、あれはコブシですよ」
という答えが返ってきました。
それまで間近からしかコブシの花を見たことがなかった私にはそれが不思議に思えたのです。
なぜって、あんなに大ぶりの花が遠目には、まるで睦まじく集って咲くサクラのように見えたものですから。
三月から四月いっぱいの間、桜前線が日本列島を北上していきます。
古くはサクラの開花に合わせて農作業を開始していた土地も多く、多くの農家にとってサクラは本格的な春の訪れを知らせてくれる花でした。
ただ北の地方ではサクラの開花が農作業の開始には間に合わず、人々はサクラより若干早く咲くコブシの花を合図として苗代作りや、大豆の種蒔きを始めたりしていたのです。
それで東北のとある地方ではコブシのことを「田打ち桜」あるいは「種蒔き桜」と呼んだのです。
以前に、サクラという言葉は「サ」と「クラ」から成っていることをお話ししたことがあります。
「サ」は農業の神様を意味する言葉、「クラ」はその神様が腰かける座を意味する言葉といわれています。
つまり、もしかするとサクラという言葉は特定の樹木を指し示すものではなく、農作業の合図を送るために神様が座る樹木全般を意味する言葉だったのかもしれません。
だから、コブシもサクラと呼ばれる資格を有した樹木だったのでしょう。
それに遠くから眺める花咲くコブシの木は、どう見ても満開のサクラにしか見えないくらいだったのですから。
コブシは漢字で辛夷と書きます。
この漢字は中国から渡来したもので、本来は同じ仲間であるモクレンを意味するものだったのです。
それと言うのもコブシは日本の自生種で中国には無く、後に漢字だけ当てられたのでしょう。
いっぽうコブシの語源はその蕾が幼子の握り拳に似ていたからという説があります。
こんなにも大切な役割を担っていたコブシですが、奈良時代から平安時代にかけて発表された古典文学にはことごとく登場しません。
多くの植物を扱った『古今集』にすら出てこないのです。
これはきっとコブシが長い間文学の中心地だった関西において華やかなサクラの陰に隠れてしまっていたことと関係があるのかもしれません。
とはいうものの暮らしの中にはしっかりと根付いていたようで、花からは香料、樹皮からは油、種からは染料が採れるなど、有り難い木であることには違いなかったようです。
[語る人]川崎景介 Keisuke Kawasaki [ http://www.mamifds.co.jp ]
花文化研究者。マミフラワーデザインスクール校長。米国アイオワ州グレイスランド大学にて史学を専攻し卒業。フラワーデザイナーの養成機関等で教鞭をとり、スクールでは考花学のクラスを持つ。執筆活動や全国での講演活動に従事するかたわら、日本のみならず世界各国の花文化を独自の視点で研究し、フローラルアートの啓蒙に努めている。日本民族藝術学会員。
text / 月刊フローリスト イラスト/高橋ユミ
すると麓のあたりに雪かと見紛う白い塊が見えたのです。
「雪?いや、花だな。サクラ?でもちょっと早いかな……。」
などと自答しながら知人に訊ねると
「ああ、あれはコブシですよ」
という答えが返ってきました。
それまで間近からしかコブシの花を見たことがなかった私にはそれが不思議に思えたのです。
なぜって、あんなに大ぶりの花が遠目には、まるで睦まじく集って咲くサクラのように見えたものですから。
三月から四月いっぱいの間、桜前線が日本列島を北上していきます。
古くはサクラの開花に合わせて農作業を開始していた土地も多く、多くの農家にとってサクラは本格的な春の訪れを知らせてくれる花でした。
ただ北の地方ではサクラの開花が農作業の開始には間に合わず、人々はサクラより若干早く咲くコブシの花を合図として苗代作りや、大豆の種蒔きを始めたりしていたのです。
それで東北のとある地方ではコブシのことを「田打ち桜」あるいは「種蒔き桜」と呼んだのです。
以前に、サクラという言葉は「サ」と「クラ」から成っていることをお話ししたことがあります。
「サ」は農業の神様を意味する言葉、「クラ」はその神様が腰かける座を意味する言葉といわれています。
つまり、もしかするとサクラという言葉は特定の樹木を指し示すものではなく、農作業の合図を送るために神様が座る樹木全般を意味する言葉だったのかもしれません。
だから、コブシもサクラと呼ばれる資格を有した樹木だったのでしょう。
それに遠くから眺める花咲くコブシの木は、どう見ても満開のサクラにしか見えないくらいだったのですから。
コブシは漢字で辛夷と書きます。
この漢字は中国から渡来したもので、本来は同じ仲間であるモクレンを意味するものだったのです。
それと言うのもコブシは日本の自生種で中国には無く、後に漢字だけ当てられたのでしょう。
いっぽうコブシの語源はその蕾が幼子の握り拳に似ていたからという説があります。
こんなにも大切な役割を担っていたコブシですが、奈良時代から平安時代にかけて発表された古典文学にはことごとく登場しません。
多くの植物を扱った『古今集』にすら出てこないのです。
これはきっとコブシが長い間文学の中心地だった関西において華やかなサクラの陰に隠れてしまっていたことと関係があるのかもしれません。
とはいうものの暮らしの中にはしっかりと根付いていたようで、花からは香料、樹皮からは油、種からは染料が採れるなど、有り難い木であることには違いなかったようです。
[語る人]川崎景介 Keisuke Kawasaki [ http://www.mamifds.co.jp ]
花文化研究者。マミフラワーデザインスクール校長。米国アイオワ州グレイスランド大学にて史学を専攻し卒業。フラワーデザイナーの養成機関等で教鞭をとり、スクールでは考花学のクラスを持つ。執筆活動や全国での講演活動に従事するかたわら、日本のみならず世界各国の花文化を独自の視点で研究し、フローラルアートの啓蒙に努めている。日本民族藝術学会員。
text / 月刊フローリスト イラスト/高橋ユミ
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この記事のライター
川崎 景介
花文化研究者。マミフラワーデザインスクール校長。米国アイオワ州グレイスランド大学にて史学を専攻し卒業。フラワーデザイナーの養成機関等で教鞭をとり、スクールでは考花学のクラスを持つ。執筆活動や全国での講演活動に従事するかたわら、日本のみならず世界各国の花文化を独自の視点で研究し、フローラルアートの啓蒙に努めている。日本民族藝術学会員。