植物生活編集部 植物生活編集部 12ヶ月前

あれから50年|1972年。ビジネス、カルチャー、アートが交錯する 『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(7)海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け


1972(昭和47)年1月15日、20~30代の若き男性フラワーデザイナーが12人、自分たちの力だけで大きなフラワーショーを成功させた。

会場となった新宿の東京厚生年金会館小ホールは座席数700、ほぼ満席だったという。
ショーのタイトルは「エクセレント・トゥエルヴ―花と12人の男たち」。

メンバーのその後の活躍や影響を見るとき、「エクセレント・トゥエルヴ(※以下、「エクセレント12」と表記)」は、日本のフラワーデザイン史におけるひとつのメルクマール(記念碑的なイベント)であったと断言できる。

日本社会が経済成長と公害問題というように光と影を抱えながら劇的に変わりゆく時代にあって、花きの生産拡大と大衆化に対して、フラワーデザインに関係するビジネス、カルチャー、アートは、未分化なままエネルギーを溜め込み膨張し続けていた。

後にも先にもこの時を逃してはできなかったと思われる歴史の瞬間に、このイベントが撃ち込まれたのである。
これは同世代の若きフローリストたちの夢や情熱を代弁し、激しく燃焼させる出来事でもあった。

50年の歳月を経た今、もう一度、資料をもとに当時の状況を振り返り、この歴史的なイベントの意味を考える連載の第7回目。

本連載は8回の記事に分けて連載する。
1. 12人のプロフィールとその後 
2. 伴走者、安齊重男氏との出会い
3. パンフレットに残された手がかり
4. 1971年(前年)の活動を示す二つの資料
5. 新資料の発見、メンバーの覚悟
6. ふたりの目撃者
7. 海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け
8. エピローグ 「地球の日-花の革命」



過去の記事はこちらへ
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(1)12人のプロフィールとその後
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(2)伴走者、安齊重男氏との出会い
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(3)パンフレットに残された手がかり
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(4)1971年(前年)の活動を示す二つの資料
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(5)
新資料の発見、メンバーの覚悟

>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(6)ふたりの目撃者


資材メーカー、販売会社とのコラボレーション


エクセレント12のパンフレットの広告のなかに「オアシス」の値下げが大きく掲載されている。



当時、スミザーズ・オアシス社の極東地区総代理店だった松村工芸株式会社の広告だ。

この値下げの背景には、メンバーの成瀬房信氏らの動きがあったようだ。中間流通経費を削減し、値下げをするように働きかけたという話を本人からうかがったことを思い出した。

さまざまな先輩方の話によると、1ドルが360円だった時代に、オアシスの価格がちょうど1ドルか、それより少し高いくらいの価格だった、とよく言われている。

現在だと軽く1,000円以上する感覚である。とても誰もが気楽には使用できなかったため、これが、この時代には、大きく値下げされた、ということのようだ。

フローラルフォームはフラワーデザインの基礎資材であるため、これらが使いやすくなるということは大きなできごとであったに違いない。

ちなみに、当時、銀色のアルミホイルしかなかった時代に、メーカーに要望して緑色のものを出してもらったのも成瀬氏の働きかけが大きかったという。

戦前から、デザイナーと資材の工夫はある種の共同作業が必要で、永島四郎(「婦人公論花の店」)、吉田鉄次郎(「みどりやフローリスト」)の時代からフラワーベース(花かご)やリボンが国産化され改良されてきた歴史がある。

戦後、あるリボンメーカーには「マミカラー」と呼ばれるマミ川崎氏とのコラボレーションでつくられた色があったそうだ(『フラワーデザインライフ』1972年1月号)。

エクセレント12のイベントのパンフレットにはリボンなどの資材、ドライフラワーやランなどの花材、海外のデザイン書を扱う書店など26社が広告を出している。

これ以外にも広告をもらうためにお願いしてまわったことだろう。
80年代から90年代には、大手資材メーカーがバックアップして海外のデザイナーを招いたデモンストレーションショーが数多く開催されたが、エクセレント12はこうした手法の先駆けでありモデルケースとなっている。


コンテストに挑戦し個展を開く若者たち


フラワーデザイナーの仕事は自分を表現するというよりも、お客様からの要望を受けて、催物の目的や飾る場所の雰囲気を考え合わせてデザインをおこしていく場合は圧倒的に多い。
そのため、ときには、自分を顧客とし、自分のためのデザイン、表現を試し、人に見てもらいたいという欲求が自己の内面に溜まっていくものなのではないだろうか。

エクセレント12のイベントがそうした思いを爆発させる場であったわけだが、それ以前からメンバーはそれぞれにコンテストに繰り返し出品、出場し自分の力を試していた。
すでに述べたように、こうしたコンテストで上位入賞の常連がエクセレント12のメンバーなのである。
コンテストはライバルを見つけ、友を知る場でもあった。

なかには、田中栄氏のように、「コンテストのためのデザイン」はつくりたくない、という考えを持つ人もいる。
そのような人も、日常の仕事のなかで与えられる要望に対してオリジナルなデザインで勝負しようとしていた。

このようにコンテストに力を入れていく一方で、注目したいのは、メンバーのうち池田孝二氏や佐納和彦氏らが「個展」という形で自分を表現する場を自ら創っていたことである。

フラワーデザイン界の最初の大規模な個展は、1967年にマミ川崎氏が毎日新聞社のあるビル(竹橋の東京パレスサイドビル)で行った「マミ川崎第一回個展『花の微笑』」がその嚆矢とされているが、個人作家としては二人の個展もかなり早い動きだと思われる。

池田孝二氏の経歴を見ると、70年に桑沢デザイン研究所で学び、卒業している。
桑沢には、服飾を学び花の世界で活躍したサトウジュン氏や写真からライフスタイルショップを経営し、花で一時代を築いた高橋永順氏らを輩出した点で注目に値する学校である。

池田氏は卒業後にヨーロッパ視察旅行を行い、その帰国後、銀座の「銀彩堂画廊」で個展を開いている。
どのような内容であったかは一切不明だが、ヨーロッパの旅の印象が反映されたものであったであろう。

銀彩堂画廊は銀座8-8-15青柳ビルにあった(『産経会社年鑑第9版』1970)。

新橋駅近く、銀座8丁目交差点すぐの非常に便利な場所である。現在1階にはタチカワブラインド銀座ショールームがあり、裏通りに面してケン・フローリストという花屋さんが入っている。

もう一人、佐納和彦氏は1969年、やはり東京銀座の「東電画廊」にて第1回個展を開き、翌、70年には東京銀彩堂画廊にて第2回個展を開いている。

アメリカに勉強に行くのはその翌年であるが、国内のコンテストには精力的に参加し、最優秀賞をいくつも獲得していた。

東電画廊=東京電力銀座サービスセンター画廊 銀座の元松坂屋の並び、新橋寄り(現在の銀座6丁目10番か11番地)にあった。

いまはGINZA SIXの巨大な敷地に吸い込まれている。

二人が個展でいったいどのような作品を制作し展示していたのかまったく不明であるが、現在でも生の植物には虫が出て所蔵作品が損なわれる可能性があるから、といった理由で一般の貸し画廊、ギャラリーが利用できない場所は多い。

そんななかで銀座という一等地で作品展ができる場所を探し、自己負担で個展をやるというのはなみなみならない努力が必要だろう。
それでもなお、自らの表現を人に見てほしいという欲求が彼らの内にあったということだ。

フラワーデザインはビジネスとアートの境界を行き来するような世界であるから、個展をきっかけにして新しい顧客との出会いもあったに違いない。


ポスト工業化時代の幕開けを感知


1960年代の後半から1973年の第一次石油ショックまでというのは、フラワーデザインの黄金期といっていい。

この時代は、オリンピック後の停滞から反転し経済も絶好調で、たとえば25歳前後の年齢を迎えた第1次ベビーブーム世代の婚姻件数は、1970(昭和45)年から1974(昭和49)年にかけて毎年100万組を超え続けている(内閣府)。

住宅の新設、結婚や出産祝いのほかに、『an・an』に代表される新しい女性誌の創刊、企業の広告や広報誌、カラー放送が普通になったテレビ番組など、花と緑の需要は拡大し、フローリストの仕事も全国規模で絶え間なく増え続けていた。

この時代には印刷技術も長足の進歩をしており、1962年に『ガーデンライフ』が創刊された時、カラーページの色版をつくるためにフランスの会社に原版を送ってやりとりした、というが、70年代にはすべてクリアされ鮮明な印刷物が早く大量に製作できるようになっていた。

このような状況にあって、「エクセレント12」は、「プロとはなにか」「どうあるべきか」を互いに問い、考え続けている。

彼らが舞台上で提出した企画の中に「花を使わないで映像で表現する」作品があった(「朝日新聞」の記事)ということなど、その表れであろう。

時代は、すでに「量から質へ」と大きく転換しようとしていた。
広告の表現も、コピー(文章)からビジュアル重視に変わり、求められる花も変化していた。
こうした変化は後に「ポスト工業化の時代(脱工業化とも)」と呼ばれるように、製品の機能だけではなく、美しさや心地よさという「フィーリング」が重視されるような価値観へとつながっていく。

別な言い方をすれば、好むと好まざるにかかわらず、「虚像」への需要が増大していたのである。
植物を用いて自然を表現するだけでなく、豊かさや栄華、夢や希望といったイリュージョンが必要とされる時代であった。

花のコンテストで繰り返されるABC(アレンジ、ブーケ、コサージュ)だけでなく、多様な植物素材を使った新しいイメージの創造が求められ始めていた。

「エクセレント12」という個性豊かな若者によるイベントやパンフレットは、彼ら自身が考え抜いて提出したひとつの「答え」だった。
現場に立ち合った多くの若者は、瞬時にすべてを理解し、全身で反応した。
そのとき初めて自分たちが立って歩むべき大地の大きさと質量をはっきりと自覚したのだと思う。
しかし、先に「量より質」と述べたが、当時の花が生み出すイメージへのニーズは「質も量も」求められていたのは皮肉なことであった。

フローリストたちは個々の表現に対する欲求があっても、立ち止まって考える時間もないほど忙しい日々を迎えていた。
たとえば一つの店の中でさえ、スタッフが花材を取り合ってもめるようなことは日常茶飯事であった。
先に述べたように、花の世界には、美術家が作品を発表する常設の画廊も美術館もない。
自ら表現する「場」を開拓する必要があったはずだが、日々、拡大する需要に追われるように、ビジネスとアートの境界を行き来しつつ、店舗や商品のデザインを時代に合わせて更新しながら90年代半ばまで走り続けたのである。

かつて安齊重男氏との出会いによって、虚像を廃して「ものそのもの」を場に提示する「もの派」とすれ違った若きフラワーデザイナーたちのその後が華やかな「虚像」を拡大再生産する大きな動きの中に吸収され躍動していった軌跡がとても皮肉なことのようにも思われる。
 
最後にもう一度、この時代に問いかけられていた表現の問題について3つの問いを立てて考えてみたい。
 

1962年、マミ川崎氏が創出した「フラワーデザイン」革命


最初の問いは、日本人による「フラワーデザイン」という新しい花文化のカテゴリーはどのように創出されたのか。

具体的には「フラワーデザイン」と「いけばな」はどう違うのか、という問いである。

まず、マミ川崎氏が1962年にスクールを開校したところから日本の「フラワーデザイン」は大きく動き出した。
永島四郎氏が1963年に亡くなるのとマミ川崎氏の登場がピタリと重なる。ひとことで表すなら、マミ川崎氏は、画期的な「イノベーション」を起こした、ということになる。

それまでの「花卉装飾」「フローラル・デコレーション」の領域は、あくまでもプロ、花卉装飾技師の世界であったが、マミさんが開いた扉の先には、一般生活者の生活文化、趣味、教養としてのフラワーデザインの世界があり、フラワーデザイナーの仕事の場があったのである。

しかし、それらはまだ、ぼんやりとしており、ハッキリとした姿を見せてはいなかった。

「イノベーター・マミ川崎」氏は、花のプロたちからすれば「よそもの」であったがゆえに、持ち前のバイタリティを発揮し、自らの考えによって自由に活動の幅を広げることができた。最初の5年を見ても、その動きは実に大きく素早い。

事業の成長スピードに負けなかったのは、アメリカ留学で身につけた語学力や新聞記者の経験を活かし、欧米への視察を繰り返して最先端の情報を採り入れた指導内容の改善をし続けたことが大きい。

マミフラワー以後、数多くのスクールができるようになり、フラワーデザインの大衆化はいっきに勢いを増していった。

こうして時代の寵児となったマミさんは放送が始まったばかりのテレビのワイドショーでもコメンテーターとして活躍するなど、「フラワーデザイン界の顔」となっていった。この時代、マミ川崎氏にとっての最初の役割は、「フラワーデザインとはなにか」「いけばなとはどこが違うのか」と説明し続けることであった。

1963年には最初の著作『花(ふらわー)をデザインする』を出版するが、そこでもフラワーデザインとはなにか、が大きなテーマとなっている。

今年は、日本のフラワーデザイン60周年にあたるわけだが、現在「フラワーデザイン」と「いけばな」の違いを述べることにいかほどの意味があるだろうか。

もっと言えば、日本と世界の作風の違い、というような話が成り立たないほどに花材も花器も手法もスタイルも境界がなくなって、最終的には作家、デザイナーそれぞれの個性に集約されるようになったと言っていいと思う。

しかし、60年前はそうではなかった。
洋花をボリュームよく用いるフラワーデザインがブームとなるにつれて、いけばな界からの反撃もあり、それに理論的に答えていく必要があった。

当初はブーケやコサージュなど「身につける花」に注目が集まっていたが、アレンジメントも含めて、日々の生活を花のある豊かな空間にする、ライフスタイルの重要な要素といった論点が大きくなっている。

かたや家元のいる流派や床の間芸術、またたくさんの決まりごと、とくに禁忌(やってはいけないことばかり)が多いいけばなにはない「自由さ」も魅力であった。ほかにどんな議論があったかは、下記のサイトを参照してほしい。

※「園藝探偵の本棚」第118回 フラワーデザインは「残酷」か~1967年の状況、その「光と影」

 
2つめの問いは、フラワーデザインスクールはあくまでも「カルチャー(趣味、教養)」のためのものなのか、それともフローリストになるための「職業訓練学校」なのか、という問いである。

フラワーデザインが立ち上がってから最初の課題は「いけばなとの差別化」であったとすると、第2期の課題は、デザインの「カルチャーとビジネスの差別化」であった。

これは、マミさん以前のフローラル・デコレーションとマミさん以後のフラワーデザインとの違い、という問題の再燃であるという側面もあるが、それよりもカルチャー(生活文化)側の問題というより、社会の要求(圧倒的な需要の拡大)によって出てきた問題であった。

たとえば1960年代の後半から70年代にかけて、戦後生まれの団塊の世代が結婚し家庭を持つ時期にあたっていたことは大きな要因となった。

オイルショックもまだで経済も絶好調であった。花の需要はいやが上にも増していくなかで花業界も多くの人材を求めていた。そんななかで、フラワーデザインスクールを卒業した人が仕事の現場では「役に立たない」、「ブーケひとつ作るのに1時間もかかるのではどうしようもない」と。

そればかりか、むしろ「知識ばかりで足手まといになる」という声が聞かれるようになっていた。
スクールでの学びはお金と暇のある人達の「お遊び」だという厳しい批判であった。

マミフラワーデザインスクールの機関誌での対談などを読むと、業界内には、こうした苦情があることがわかる。

これに対してマミさんは、はっきりと「私たちのスクールは職業訓練を目的にしていないしするつもりもない」というふうに答えている。

これは、他のスクールでは、花店に就職するのに役立つというようなことをうたって生徒を集めているところもあったからだと思われる。

マミさんからすれば、自分の娘の結婚式のためにブーケを手作りしたいとか、パーティで身につけるためのコサージュをつくりたいとか、花や緑を絶やさない心豊かな生活を送りたいという女性のためにスクールがある、それでいいのではないか。

しかし、実際には、多くの花屋がけっこうな利益を得ながら、いつも人手不足であり、どんなレベルであれ、基礎的な技術を学んだ人たちはどうしても必要だったのである。

フラワーデザインは、「花のある豊かな暮らし」「生活の花」を求める一種の運動として始まったにもかかわらず、社会はそれを「女性」だけのものでも「家庭」の中だけで終わらせることなく、もっと多様な場所へ、また男性にもその活用の場を広げるよう強く求められるようになっていった。エクセレント12が、「男たち」にこだわっているのもこうした時代を反映している。

日花協、JFTDのようなプロを対象とした団体でも全国各地で講習会がさかんに開かれていたし、JFTDの場合は、東京に本部事務所が入る会館を建設し、のちにJFTD学園の前身となる本部での講習会が計画されていた。

NFDの場合は、デザイナーが身につけるべき基礎的な技術を標準化してカリキュラムの教本、検定試験といった事業が形になっていった。

それでもなお、多くのフローリストが、自分のショップで採用したスタッフに実践を交えながら教えていく、いわば徒弟制のような従業員教育が以前と変わらず営々と行なわれていた。

アメリカのように、デコレーターとその他のスタッフとが明確に役割分担され、あるいは欧州のように国家資格を持たなければブーケやアレンジメントの作成が許されないといった資格制度を整備できずに現在に至っている。
 
三つめは、フラワーデザイナー個人の表現欲求はどのような形で発表されてきたのか。
ここには、「デザインとアートの区別はどこにあるのか」という問題がある。

1956年に、哲学者の鶴見俊輔が提唱した「限界芸術」(非専門的芸術〈つくり手〉によってつくられ、非専門的享受者〈受け手〉によって享受される芸術を「限界芸術」Marginal Artと考えた)のように、また、明治初年に外国人によって驚かれたように、日本人にとっていけばなは長い間、生活に密着した「フローラルアート」であった。

それが戦後のいけばなとの差別化、またカルチャーとの差別化によって、フローリスト・デザイナー(花店勤務のデザイナー、とくに婚礼専門や葬儀=花祭壇デザイナーなど)やスクール・デザイナー(スクール講師)らは、自分たちの職業は得体の知れない芸術(アート)ではなく、装飾を目的とした「デザイン」を創造するプロフェッショナルである、というふうに自己規定を厳しくするようになっていった。

自分はデザイナーなのであって自己満足的な芸術家でない、と戒める。
これはある種、過剰反応というべきで、本来はもっとビジネスとアートの境界は緩やかであって作家自身の思いや気分といったものを打ち出して良いものであるはずであった。
それでもなお、フラワーデザイナーの多くが、自分は「芸術などとはちがう」「自分は花屋である」「デザインを売って生活をする人間である」ということを主張する。

花の仕事からインスタレーションを手掛け、現代美術家として国際的に活動の幅を拡げている作家もいる一方で、誰もがフラワーアーティストと認める東信氏さえ、「花屋」であることに固執しているという不思議な状況が現在もずっと続いている。

この未分の状況は、後に続く者たちにも混乱と迷いを生じさせていると思う。

こうした問題とは別にしても、マミ川崎氏が巻き起こした花産業の「イノベーション」、フラワーデザインの第一期の「流通革命」(第1期はフローラル・デコレーション、花卉装飾から「フラワーデザイン」への革新)から、第2期の「アレンジメントからイメージへ」というマスコミ、媒体へのデータとしてアウトプットされるような変化に連なる経過を観察して、ショップで実際に売り買いされる「商品」とは全く別な「商品」であり「作品」の追求は、いつの時代にあっても未来を切り開く最もエキサイティングで面白い活動だと思う。

現在はそうした活動のプロセスがわかりにくくなっているとはいえ、SNSのような媒体で発見する面白さもこれまでにない
経験として非常に注目すべきだと思われる。

繰り返しになるが、永島四郎氏の遺作『新しい日本の花卉装飾』1963では、いわゆる「アメリカンスタイル」のデザインパターンはひとつも紹介されていない。

むしろ、現代のデザイナーに近い花がこれからの「新しい日本の花卉装飾」として提案されていた。
それが、1962年以降に日本にもたらされた「ジオメトリックデザイン」に集約されていく。
日本のいけばなの型をベースに肉付けした「アウトライン」や「フォルム」を重視したアレンジメントの制作法、主役と脇役、フォーカルポイントといった用語。花材の4型分類(ライン・マス・フィラ・フォーム)というような骨子が特徴である。

こうしたアメリカの五大湖周辺の工業と経済の栄える大都市から出来上がった「アメリカンスタイル」のデザインに大きくカジを切ったということなのである。

マミ川崎氏以前の日本の花卉装飾を導き続けた永島四郎氏が68年の命を燃やして到達した「日本の新しいフラワーデザイン」とはおよそ異質なあり方だった。
にもかかわらず、「バラとかすみそう」に代表される「商品マニュアル」が現在まで私たちを動かし続けている。

アメリカ人の合理的でシステマチックな思想をもって完成されたベーシックデザインとその理論は、花店に就職したスタッフが1ヶ月で花束やアレンジができるようになるための明快さがあふれているが、表現の世界はそれよりもっと大きなものであろう。

ここで、ぜひ、読んで欲しいテキストがある。




1985年12月号、月刊『フローリスト』誌の創刊から2年目、バブル景気絶好調の時期に特集された、つちやむねよし、刈米義男、萩駿介各氏による鼎談だ(当時の『フローリスト』誌の語り口も景気の良さが表れている)。

ここでは、現在の私達にもひどく通じてしまうような、厳しい言葉が投げかけられていることに注目して読んでほしい。

つちや氏や刈米氏らが強調するのは、これまでのアメリカンスタイルのあり方ではなく、もっと作家の人間性に頼り、花材の多様で魅力的な使い方を追求すべきだということである。

記事からすでに40年近く経過した現在では、さすがにアメリカ的な発想から離れつつあるとしても、販売の現場では、やはり古くからの「わかりやすい」手法がずっと続けられているのが現実である。

そこには、新しい花材の生かされかたや発展が見えない。
これからもひとりひとりのフローリストが考えていくべき問いがここにあると思う。ぜひとも、これからのフローリストには、花材の見極めを簡単に公式化せず、今までにない使い方にチャレンジし続けてほしい。
 
※『フローリスト』1985年12月号 対談「花・感性と美学を語る」刈米義雄、つちやむねよし、萩駿介
荻氏の「みずぐるま」は恵泉女学園の卒業生である竹沢紀久子氏を中心に経営されていた。『フローリスト』誌でも長く連載をされている。
(出展:https://ainomono.blogspot.com/2022/10/198512.html)
 
ここまで書いてきて、つちやむねよし氏が登場した2005年の11月の夜、東京、世田谷市場花卉部仲卸会が主催した「フラワー・ストリート・ライブ」の様子を思い出した。

つちや氏は、すりガラスを何枚か隔てた向こう側にさまざまなバラを器に挿して照明のプロと一緒に幻想的でエロティックな花作品をつくった。

ただいけるのではなく、さらに観客から何名かを呼んで一緒に花をいけていくパフォーマンスに展開させ、非常に場が盛り上がった。

世田谷市場でのストリートライブは2002年から始まり、03年には東信、椎木俊介の「ジャルダン・デ・フルール」、04年には「花太郎」保坂桂一氏ら多数のトップフローリストが登場し、それぞれの個性が強烈に発揮される作品を見せてくれた。

さあ、いよいよエピローグになる。
最後の問いは、フローリストたちがそれぞれの表現の場をどのように社会に位置づけられるのか、という問題だ。

花と緑で社会をよい方向に変えていく、「ソーシャル」な活動について、エクセレント12のメンバーはどんなふうに行動したのだろうか。


< 『エクセレント・トゥエルヴ』の時代はどのような時代だったか>

>> 最終回 連載第8回 「エピローグ 「地球の日-花の革命」へ続く 


文・取材/松山誠(園芸探偵)
まつやま・まこと 1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。
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この記事のライター

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