植物生活編集部 植物生活編集部 31ヶ月前

さよなら、「平成」を振り返る。

1989年1月8日より、30余年。
今、1つの時代が幕を下ろそうとしています。

フラワーデザインの雑誌として同時代を歩んできている「月刊フローリスト」のライター松山誠さんに「花のクロノロジー」として、「平成」の花の歴史を振り返っていただきたいと思います。



ちょうど時代の変わり目に発売した、「フローリスト」の2月号(1989年1月8日発行)。1984年に創刊された小誌は、まさに平成の時代をともに歩んできた。


 

花産業における、平成の3区分


平成という時代が終わる。花産業を取り巻く環境も、この30年で激変した。
あまりにも多くの要素があるので、思い出すことだけでも多岐にわたり、そのときどきに味わった感情が溢れ、尽きることがない。

平成を3つの時期に分けるとすると、80年代の日本経済の急成長に余波を受けた90年代後半までを、第1期。
次いで、大型金融機関の倒産があった97年頃を境に、切り花も鉢物も市場が縮小をはじめ、そのまま右肩下がりで2000年代へと推移する第2期。
この頃、バブル崩壊後の経済への危機感が強まるなか、生産・流通・販売それぞれがマーケティングを意識し、力を合わせて花の需要拡大に努めることになった。
この間、IT技術の驚異的な発展と普及により情報環境は激変した。
2008年のリーマン・ショック後、市場の縮小が落ち着きを見せた2011年に東日本大震災と原発事故が起きた。
ここから現在までが第3期と考えている。

花の価値について、本質的な部分の議論が求められており、人口減少社会や超高齢化といった日本社会の状況や世代交代を着実に進め、未来への新しい体制作りが待ったなしとなっている。

ここからは、花材とその利用(業務、小売りの商品、デザイントレンド)、国内生産、輸入の花、流通(市場、輸送)、品質管理技術、情報、消費・需要拡大のための動きといった項目を立てて概要をみていく。

 
 

新しい花の登場


この30年で新たに登場してきた花材は、膨大な数になる。
経済が好調な第1期は、海外で育成された新品種の輸入が先行し、その後、国内栽培がはじまるという型があった。

スプレーキク、ポンポンマム、ミニガーベラ、アルストロメリア、サンダーソニアなどがそれに当たる。
バラは、高芯剣弁の品種から、ガーデンローズに見られるような丸い姿のものが数多く出てきた。

球根切り花は、防疫制度の変更により輸入球根を大量に利用できるようになり、一気に増加した。オリエンタルユリ、LAユリなどに加えて、各種の変わり咲きチューリップもブームとなった。
このように平成を代表する花をいくつも取り上げてみたが、一つだけ挙げるとするなら、ユリの「カサブランカ」だろう。30年を超えて今も高い人気を誇る名品だと思う。

一方、海外育成品種のほかに、国内で品種改良された花もたくさん登場した。現在、日本の花き輸出の中心となっている、トルコギキョウ、グロリオサ、スイートピー、リンドウなどがある。第2期には、ダリア、シャクヤク、大輪のラナンキュラス、スカビオサなどが続々と登場した。遺伝子組み換え技術による青色遺伝子を導入した花も話題となった。

 

流通花材のトレンドと動向


花だけでなく、葉物などのグリーン類も重要な役割を担った。業務需要に欠かせないレザーファンから、モンステラ、レモンリーフ、ルスカスなどが安定的に輸入されるようになった。
今では一般的になってしまったが、ベアグラスやスチールグラスなどの線を生かせる素材が登場したことは、平成のフラワーデザインに大きな影響を与えた。

色については、第1期に、バブル期のパステル調に加え、鮮やかではっきりした色の品種が数を増したのに対し、第2期以降は、いわゆる「ニュアンスカラー」と呼ばれる中間色の花が人気で、秋色アジサイなどが多用されている。
また、「染め」の技術も広がり、染め、ラメ、グリッターといった加工花も増えた。青やレインボーカラーのバラや、染めのカスミソウのように定番化したものもある。

鉢ものでは、「花博」※のあった90年頃からガーデニングブームがあり、庭や寄せ植えに使う花苗が消費をリードした。
ペチュニアの「サフィニア」シリーズは、国内外で大人気となった。
ギフトに用いられる花鉢では、母の日に、カーネーション以外のものも広く販売され、アジサイやクレマチス、ミニバラなどが人気となってきた。

観葉植物、小型のインテリアグリーンの人気は依然として高い。サボテンや多肉植物を中心に、身近に置いて楽しめる個性的で変わった植物に人気が出ている。

※平成2(1990)年に大阪で行われた「国際花と緑の博覧会」のこと。花の万博とも。

 

フローリストでは、オランダ発の、見慣れぬ品目を 紹介する記事が掲載されていた。写真は上から、アスクレヒアス・トゥベローザ(原文ママ)、アスチルベ、イキシア。制作はすべて、レン・オークメイド。(上/1990年8月号、中/同5月号、下/同4月号 すべて月刊フローリスト・誠文堂新光社刊より)

 
 

平成のフラワーデザイン


フラワーデザインのトレンドは、第1期にヨーロッパ(フランス、オランダ、ドイツ、ベルギー、イギリスなど)のフラワーデザイナーが数多く来日し、スクール組織を作るなど、大きな影響があった。
骨組みを使ったデザインや、グラスチューブを利用して空中に花を浮かせるようなデザインなど、毎年のように新しいスタイルが紹介された。

花束でもアレンジでも、ベーシックな技術が定着し、多様な資材を利用できるデザイナーが数多く育った。
その後、ニューヨークで人気の、シンプルで花の密度の高いコンパクトなアレンジや、東南アジアのリゾートで見られるガラス器の中にランやセンニチコウなど鮮やかな色の花を収めるスタイル。
ハワイのレイ。
また、東欧諸国の手仕事を強調したデザインも注目された。
最近では、フランス発の「シャンペトル」と呼ばれる、輪郭の緩やかな自然なスタイルが人気で、枝物や草物の需要が増えてきた。

こうした世界のトレンドとは別に、日本人デザイナーも世界で活躍する場が増えており、日本人としてのアイデンティティと個性をどのように表現していくのか楽しみなところだ。

 

 

花店の商品展開の変容


美しいラインを持つデルフィニウム、リューココリーネ、チューリップなどの空間を生かした生け方をするものから、密度が高く、輪郭のはっきりした生け方をするもので、持ち歩きや飾るところまでを意識した「商品」が、多数、研究された。
重箱のようなボックスフラワーや高さのある陶器に低く生けたアレンジが、数多くのカタログに載るようになる。
背景には宅配便で送るための仕様が求められていたこともあった。
保水剤の改善で花束も宅配が増えた。
器やラッピング、手提げ袋なども品質が向上し充実している。

第1期の終わりにはプリザーブドフラワーが普及し、アレンジなどとして商品化された。
近年ではアーティフィシャルフラワーやハーバリウム、ソープフラワーなどの非生花商品が生花とともに販売の柱となっている。



海外のフラワーデザイナーの紹介記事も平成1期はほぼ毎月掲載されていた。写真は、ジェーン・パッカーの連載記事。当時、東京・元麻布にフラワースクールを開校し人気を博していた。毎月、季節のブーケやアレンジメントと、その作り方を3ステップで紹介していた。(左/1994年9月号、右/1995年3月号すべて月刊フローリスト・誠文堂新光社刊より)


 

業務需要での変遷


平成第1期では、業務需要も小売りも、80年代の勢いを引き継いで拡大していった。
逆に、第2期には、拡大しきった業務需要が減少に転じ、その反動が全体に影響を与えることになった。
イベントや宴会などで企業が花を利用する機会も金額も減少。
お祝いの花の定番だったコチョウランの鉢植えは、近年、宅配の規格・条件の変更によって利用しにくくなったと言われる。
葬儀では花祭壇が増えた一方で、家族葬の増加や、総費用の減少傾向が響く。
婚礼では「ジミ婚」「ナシ婚」で花の利用が減った。総じて、いろいろな面で需要の多様化が進んだことで、それぞれの相手や場面に合わせて、細かな対策が必要になっている。

小売りでは、「特別なときの花」から「日常的に使う花」へと提案内容が変化した。
食品スーパーやホームセンターなどの量販店で束売りする、いわゆる「カジュアルフラワー」の取り扱いは飛躍的に伸びた。
これは世界的な傾向でもあり、今後も伸びが期待されている。第1期には、ほかのさまざまな商品と同様に、花にも「価格破壊」が起きた。
当時の量販店は、スタッフを置かないセルフ売り場を手はじめに、低価格帯と、新しい業態、有人店舗作りを目指していたのだが、第2期以降はセルフ売り場を特化させる方向に変わっていった。
産地フェアの実施や「日持ち保証販売」の導入など、商品の持続的な品質向上と売り場の魅力を上げる仕組みとして検討、実施されている。

都市部では駅ビルの改装にともなう、駅ナカに入ったチェーン展開の花店が躍進する。
また、第2期以降、大きく成長したのは、インターネットでの花販売だ。
ギフトを中心に花の販売チャンネルの一角を担うようになった。
成長性として見逃せないのが、全国各地にできた農産物直売所での花販売だ。利用者にとっては、新鮮で価格が安いという魅力は大きい。


 

 

生産現場で起きたこと


国内の花生産の現場での変容としては、まず栽培施設の充実が挙げられる。
種苗会社、研究機関、JAなどにより栽培技術は日進月歩となり、種苗の生産と、栽培の役割分担が確立した。
生育を揃えられる高品質の「F1」品種などが主流となり、モノ日などの必要なときに必要な量の花を供給できる体制に近づいた。
しかし、施設の稼働率を上げ、年間の雇用を確保するために周年出荷が増えることで、暖地と高冷地の季節的な棲み分けによるリレー出荷のかたちが崩れ、競争と需給バランスの悪化で相場を悪くすることが多くなった。

花鉢でも、「F1」品種やセル成型苗(プラグ苗)による生産が普及し、質と量がともに向上、計画的な大量生産と、良品出荷を両立できるようになった。

第2期以降は、単価を上げるために、生産者もマーケティングを意識し、産地のブランド化、情報発信に力を入れるようになった。
インターネット環境の向上とともに、生産者と小売店、消費者の交流も拡大し、深化している。

 

花の輸入と輸出


輸入の花は、モノ日需要などに対する国産花を補完するところからはじまったが、やがて国産と輸入の役割が逆転する品目も出てきた。
カーネーションやスプレーマム、サカキなどである。
一定の価格で安定した品質と量が確保でき、実需者にとっては計画が立てやすいため、ほぼ周年入荷するようになっている。

第1期は、オランダで検疫を済ませた状態で輸入される仕組みができたため、現地の花が新鮮な状態で数多く輸入されるようになった。
オランダの花は多様な品目があったが、とりわけアマリリスやアジサイには驚いた。
初めて見る花が毎月のようにあって非常にわくわくしたことを覚えている。

アメリカからはノーブルファー(マツ科モミ属の常緑針葉樹)のツリーやリース、切り枝の輸入がはじまった。
ハロウィンの小さなカボチャも最初期から人気になった。
ハワイからは驚くようなアンスリウムが大量に入荷されていた。
タイ、シンガポールのランや、韓国のスプレーバラとユリ。
インドやアフリカの高地で作られるバラに、中国のキクやカーネーション。
さらには、オーストラリアや南アフリカのネイティブフラワー、ニュージーランドのカラーやシンビジウム、シャクヤク、イスラエルのカスミソウなど、挙げ出すと切りがない。
中南米高地、コロンビアやエクアドルの巨大なバラやカーネーションは衝撃的だった。
現在は輸入がほとんどなくなったものもあるが、輸入の花自体は完全に定着した印象がある。
彼らは輸出に特化し、消費者の手元で飾られるまでの品質を保持するため、あらゆる努力をしている。
こうしている間も改善を続けているのだ。

一方、輸出は第2期あたりから市場調査がはじまり、日本の農産物全体の輸出振興の一環として期待されている。
盆栽や植木がヨーロッパや中国で人気のほか、量は少ないながら、切り花も特長ある品目を数多く集め、航空便でアメリカ、欧州、アジアへと送り出しており、いずれも高い評価を受けているという。
今後はこれまでの実績を踏まえて、輸出専用の生産へと転換することが求められる。

 

流通と輸送 ①市場の変容


昭和の終わりから平成の初めにかけて全国各地にあった市場が統合・合併し、いくつもの大型新市場ができた(大田[平成2年]、板橋[平成5年]、葛西[平成7年])。
これを機にオランダ式のセリ下げによる「時計セリ」が主流になっていく。
これにより、セリ時間は短縮され、以前に比較して多くの花を取り扱えるようになると同時に、手ゼリの符丁を知らない若い世代や量販店のバイヤーなど、新しい売参人も参加しやすくなっていった。

市場の取扱量が大きくなるにつれてセリ前の相対取引も増え続け、市場の取引に関する法律も順次変更された。
現在ではセリが2割、相対と注文が8割という状況になっている。
セリ前取引や電子化が進むことで物流のスピードも上がり、市場に滞留する時間も格段に少なくなった。
第2期には商品情報の電子化が進み、第3期になるとセリ場に行かずに参加できる「在宅セリ」もはじまった。

場内で使われる台車にはいろいろな種類があったが、順次、規格化が進み、軽いアルミ台車が主流となった。
鉢物の輸送はトラックの荷室に棚を作って手積みするのが普通だったが、台車輸送に変わった。
モノ日に大量に流通する花材や、キクなどの市場内の荷さばきにパレットが利用されるようになったことも、生産性を大きく向上させるできごとだった。
 

 

流通と輸送 ②鮮度との闘い


業務需要から日常の花使いが重視されはじめ、日持ち性の向上が課題になると、流通にも変化が起こった。
鮮度と日持ちを向上させるバケット湿式輸送の発明は、第2期に起きた物流革命となった。
ELFバケットのシステムが全国の市場に広がることで、小売りの現場でも水揚げ作業が軽減され、生産から販売までの品質を向上させるきっかけとなった。

市場の設備も少しずつ改善され、とくに低温・定温の保管庫の整備は品質維持に効果を上げている。
日持ち試験室を備える市場も増え、産地や小売りへのフィードバックが可能になっている。

花の品質は全体的に改良され、日持ちは飛躍的に向上した。
カーネーションやカスミソウ、デルフィニウム、スイートピーなどは劇的に改善した。
その要因として、STS剤による前処理が、一般的に普及したことが挙げられる。

産地から小売店までの一貫した低温輸送が重視され、最近の調査では、輸送前の予冷が特に重要であることもわかってきた。
切り前についても品目・品種ごとに見直されている。
さらに花店や加工場での中間処理や消費者が使う後処理剤(切り花栄養剤)の利用も広がってきた。

こうした目に見える品質(外的品質)のほかに、第2期では、「目に見えない品質」(内的品質)が重視されるようになった。
「何を作るか」と同じくらい、「どのように作っているのか」が重要になった。エコファーマー制度やGAP、ヨーロッパなどで標準となっている環境に配慮した花の生産に関する認証制度「MPS」もはじまった。
 

 

花をめぐる情報網の変化


第1期では、市場を中心に小売りと生産者の情報交換が活発になっていった。
市場は物流、商流のセンターであるだけでなく、情報の集まる場所でもある。
商品の供給が増え、買い手(消費者)の側が強くなると、小売店はより多くの商品情報が必要となり、生産者は売れる花を作るために、小売店を通じて消費者が求めていることを知る必要が出てくる。
それが第2期では、普及しはじめたインターネットを利用して、相互に、より直接的なやり取りができるようになった。
無料のブログやSNSは、こうした動きを飛躍的に進める力になった。

第2期、2004年にはじまった見本市、国際フラワーEXPO(IFEX)は重要な役割を果たしてくれた。
B to Bの商談会では、誰に何を伝えるかをはっきりさせる必要があり、価格や量、納期を含む具体的な提案が求められるため、生産者は自分たちの強みや弱みを理解した。
その後、各地で市場主催の商談会が数多く開かれるようになった。

花のデザインの部分で、ヨーロピアンスタイルが人気になる一方で、初めて見る技術をどう学ぶかがテーマになった。
雑誌の記事や書籍を参考にするのはもちろん、ツアーを組んでヨーロッパで勉強する人たちも少なくなかった。
外国人デザイナーのデモンストレーションも数多く開かれ、多くの人が熱心に学ぶ姿があった。
1992年頃、誠文堂新光社では、フローリストビデオというVHSの動画作品を発売していた。
身近に教えてくれる人のいない者にとっては、ものすごくありがたいものだった(自分もそのうちの一人だった)。
当時のソフトは高価で、YouTubeなどの動画や、SNSで、いくらでも優れた作品を世界中から閲覧できるようになるとは、夢にも思わなかった。
今後は、学ぶ一方ではなく、日本から世界に向けて発信する人たちがもっと増えていくに違いない。
 

「フローリストVIDEO」。アレンジメントとブーケの2巻が出ており、各巻、12,360円という高価なものだった。


 

 

消費・需要拡大のための動き


「花育」という言葉が定着しはじめたのは平成第2期に当たる、2004年頃のことだ。
子どもたちにさまざまな体験を通して食の知識と正しい行動をうながす「食育」を花に当てはめたもので、当初は、子どもたちに花店に並ぶ花の名前や産地を知り、飾り方を教えていこうという趣旨で行われた。
花を買う「消費者教育」ということに主眼があったのだが、その後、目的も内容も多様な形に広がっていった。
どのようなものであれ、子どもたち、あるいは、「親と子」に対して、繰り返し、楽しい花体験を提供することが、花を身近にする習慣作りに重要であることは変わりない。

日本が長い間、手本としてきたオランダの花産業は、世界を相手にしているため、広くマーケティングを行う必要があった。
そのため、生産・小売りのそれぞれから資金を集め、その基金をもとに世界の国や地域ごとにマーケティングを行っていた(現在は異なる)。
そこで日本でも、市場を利用する者が取引額の「1000分の1」ずつ負担して基金を作り、恒常的なプロモーションをしようという運動が起こった。

これが2009年頃のことだ。実現はしなかったが、その後、男性から女性に花を贈る「フラワーバレンタイン」の運動への原動力の一つになった。
2011年の震災以後、復興支援のためにいくつものグループが立ち上がったが、こうした生産・流通・販売の枠を超えた共同の運動体が、その後の活動に大きな力になっている。
2014年には、長年の念願だった花き産業振興法の制定があり、それ以前とは比較にならないほど大きな予算がつくことになった。

 

最後に私が見た「平成」


以上が平成を振り返ったときのトピックスごとの変遷だ。
最後に、自分の考えを述べて締めくくりたい。
僕が、昭和天皇が崩御されたニュースを聞いたのは1989年の新年明けてすぐだった。
当時、国立科学博物館の後援会の職員として「科博ニュース」の制作を手伝っていた。
すぐに、魚介類や植物を専門とする生物学者としての昭和天皇を特集する内容に変更され、編集を急いだ記憶がある。
それから間もなく、結婚を機に、東京西部の町にある花店に就職した。
小売りもあったが、おもに葬儀の仕事のスタッフとして過ごした。働きながら、いけばなとアレンジの先生について勉強した。

その後、いくつもの花の仕事を渡り歩くことになる。
当時、多摩地区で16店舗の食品スーパーとホームセンターなどを展開する量販店の、花部門の立ち上げに際して、現場を動かす最前線にいた。
一段落したところで、東京、大田市場の仲卸に転職。2007年まで市場内で働いた。
仲卸では切り花、鉢物、インテリアショップと共同の観葉植物販売、資材の輸入販売などを経験。
その後、フリーとなり、日本の園芸の歴史を勉強している。

この間、切り花生産、ホテル婚礼、輸入会社、花束加工、ガーデン管理、小売りの現場で若い人たちと一緒に働いてきた。
花や園芸の視察で海外へ出かけたのも10回を超える。
この2年は、年末に茨城県神栖市のマツの生産者のもとで収穫や出荷の手伝いをした。
今年は2月から花苗生産会社で働いている。
こうした経歴をどう評価すべきか、自分にはわからないが、いつもそのときどきに与えられた役割をしっかりやっていこうと思っている。

バブル崩壊後の経済低迷の影響は大きかった。
89年がバブル経済の頂点で、90年以降崩壊していくというが、花産業はしばらく右肩上がりを続け、ピークは切り花も鉢物も、1997年頃になっている。
97年には、銀行や証券会社が次々と倒産し、どの企業でもリストラやコスト削減の方向へシフトチェンジしていった。
景気のいい頃には、大企業が「メセナ活動」(芸術・文化活動への支援)に力を入れており、社屋の新築祝いを兼ねて、現在も活躍するいけばな作家やフラワーデザイナーによる巨大な作品がビルの玄関を飾っていた。
社員や社員の奥さんの誕生日に花束を贈る企業は少なくなかった。
こうした取り組みがどんどんとなくなっていった。08年のリーマン・ショックはさらに追い打ちをかけた。

98年には、「Windows98」が発売され、ここからみんながパソコンを使いはじめる時代に入る。
僕が花屋に入った頃は、配達時には「ポケベル」を持たされていた。
市場の仲卸では小型のトランシーバーで社員同士の連絡をしていた。それが、PHS、ケータイ、スマホへと進化していった。
卸売会社ごとにシステムが違うので、さまざまな設備や苦労があった。
便利になるどころか、労働はより厳しくなる一方で不平をこぼしていたことが思い出される。
2004年頃から本格化しはじめた無料ブログから、「発信する」「つながる」という、現在のSNSの動きにつながっていく。
この頃、生産者と花店、消費者が直接コミュニケーションを取るというアクションが試されはじめた。

平成の30年を振り返りながら、3つのことを考えている。
まず、世界がただ身近になっただけでなく、ほとんどダイレクトに影響を与えていること。
2つめは、情報とモノを上手に使って多様で豊かな暮らしを実現したい、ということ。
3つめは、日本の人口減少と高齢化の現状をネガティブにもポジティブにも、柔軟に考えたいということだ。
すべてはこの30年に起きたことで、これからも目をそらすことのできないことばかりだ。

平成は大きな災害があり、地球規模の気候変動が顕在化した時代でもあった。
93年の長雨と冷夏は米の大凶作を呼び、買い占めや東南アジアからの輸入が話題となった。
大地震も忘れられない。
95年、阪神淡路大震災、2011年、東日本大震災と原発事故が起きた。
このとき、農水省の花き担当が放射性物質の問題についてすばやく対応し、正しい情報の広報に努めてくれたおかげで風評被害に対して共通の情報で対応することができたことは忘れることができない。
地震は中越地震や熊本地震など各地で災害をもたらした。
山全体が崩れ、堤防が決壊するほどの水害もたびたびあった。
2014年のバレンタインの日には関東を中心に大雪が降り、花の産地にもたいへんな被害があった。
悲惨な災害を前に、花を扱う私たちは、自分たちの非力さや無力さを知った。
その一方で、業界団体のリーダーたちが行政へ働きかけ、復旧を支援するとともに、仲間で助け合う姿が見られた。
また、僕らが想像する以上に、花には力があり、厳しい環境でも花を求める人がいるということを学んだ。
これからも、どんなことがあっても、花をわくわくしながら扱う気持ちを忘れないでいたい。


国内のフラワーデザイナーの活躍も連載や特集によって掲載された。 写真は、つちやむねよしの連載。創刊号の表紙を飾ったのも同氏であった。川崎景太や、神田隆、刈米義雄、花太郎らの連載も平成初期から存在していた。(1992年12月号月刊フローリスト・誠文堂新光社刊より)


執筆した人
松山 誠 Makoto Matsuyama 
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、農耕と園藝Onlineカルチベにて「園藝探偵の本棚」を連載中。 paperflorist@gmail.com
ちょうど時代の変わり目に発売した、「フローリスト」の2月号(1989年1月8日発行)。1984年に創刊された小誌は、まさに平成の時代をともに歩んできた。

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